まとちかサッカー日記 :初体験2003-02-09

2003年2月9日(日) 晴れ

 先週私のところに電話がありました。「9日(日)に大学生の試合の審判をしにこないですか?」と言われ、あじさい杯で負けて、予定がなくなったので「いいですよ」と返事したのですが、「女子ですよね!?」と当たり前のように聞くと、「いや、男子です。練習試合だから大丈夫だよ笑」と言われ、思わず「ええー!!」と叫んでしまいました。

 いやいや・・・練習試合だからとかの問題じゃあないよ~。というわけで今日は、神戸学院ー姫路独協との練習試合、大学生男子の試合の主審を初めてやってきました。30分3本の試合のうち、2本やらせてもらいました。試合が始まり、経験した事のない“大学生の試合”がどんな感じなんだろうと思っているうちに、「ファール!」を1発目から獲りそこなってしまいました。(汗) どんどんファールが出てくる・・・ここはビシッと獲らなくては!という感じでだんだんファールも獲れるようになってきましたが、あとはついていくのに大変でした。

 見ていただいた人に、「よく動けてた」とそこは合格点をもらえたのですが、私の課題はやっぱり「ファール」。今は小学生でもうまく使う子がいますが、大学生になると手を上手に使うのです。あっ、これはハンドの「手」ではなく、相手との競り合いの時などに使う「手」です。もう一つは、どちらもがファールし合ってる時にどちらのボールにするかの判定が苦手です。本当は最初にファールをした方がファールになるのですが、どうしても後でファールをした方に目がいってしまい、反対のファールにしがちになります。(汗)  これがワールドカップでもよくあった、わざとこけてファールをねらったりなんかが出てくる試合になると思うと・・・課題は山積みです。

 最近私がよく思うことなんですが、「審判は何故フィールド内を走るのだろう?」ということです。コーチとして外から見ているとき、ヴィッセルの試合を見ているとき、その他の試合でも外で見ていたらファールがよく分かるのです。中で一生懸命走って自分のポジションを考えたりしてると、ファールの判定が遅くなったりします。だからラインは副審に見てもらって、主審は外から判定するなんてことにならないかな~と思ったりと・・・・すいません。私のぼやきです。(笑)  頭の回転、切り替えが遅いんです。2級への道はまだまだ長そうです。と感じた初体験でした。

まとちかサッカー日記 :負けたけど・・・2003-02-02

2003年2月2日(日)晴れ時々雪!?

 前にお話した「あじさい杯」が始まりました。

 1年間一緒にやってきたチームの最後の大会、いい形で終わり6年生につなげたいという気持ちで、会場の総合運動公園多目的広場に向かったものの、地下鉄のトンネルを抜けると・・・ゆっ雪が吹雪いてるではないですかー!?

 ちょっと気持ちが下がりかけたところを持ち直してくれたのは、チームの子供たち。総合運動公園の駅を出たところで集合だったのですが、行ってみると駅前の広場でサッカーをして遊んでるのです。「まったくこの子たちは・・・」とあきれながらも元気な姿を見て、がんばろう!と思いました。

 しか~し!今日のスケジュールはかなりハードで、1試合目の審判が当たっていて、その後すぐ試合。しかも副審もチームから出さないといけないので子どもにやってもらうことに。コーチは私一人だったんで、メンバーを決めないと・・アップさせないと・・誰に副審やってもらおう・・と頭の中でぐるぐる回ってました。

 アップはキャプテンの子を中心に任せて、審判している試合のハーフタイムにメンバー表を書いて・・となんとか我がチームの試合にたどり着きました。でも試合が始まってから大変なのがメンバー交代。神戸市は8人制で4本、ゲーム中(8分間)の交代はなし。そしてわがチームの人数は約20人。強化チームではないので、勝ち負けよりも本人がやりたいなら1回は必ず出します。だからといって負けるサッカーを私も子どもたちも望んでない!!やるからには勝ってやる!そんなんで、子どもたちをどのようにまわすか大変なんです・・・。1回戦の結果は1-0で見事勝利!と、喜んでる暇はありません。勝ったチームが次の試合の審判なので、また審判をすることに・・・そしてその後すぐ2回戦。またまたバタバタしてしまいました(汗)

 2回戦、私も子どももモチベーションOK、気合十分で始まったのですが、思わぬミスで失点されてしまいました。それからチャンスはあるのに点が決まらず、最後の4本目、同点ゴ~ル!!そしてその後逆転ゴール!は、相手のキーパーのナイスセーブで決まらずPK戦へ・・・。PK戦ははっきりいって不利です。練習なんてほとんどしたことないし、試合でも経験がない!結果は負けてしまいましたが、PK戦もよくがんばっていました。

 私はもちろん、勝ち負けにもこだわりますが、やっている子どもたちも見ている私も、楽しいことが1番だと思っています。だから、もちろん勝った試合でもつまらないことをしていたら怒るし、負けた試合でも楽しく充実できたら、よかったと思います。そういった意味で今日の2試合はとても満足!!そして、1年間での子どもの成長の早さに、改めてすごいと思ってしまいました。この子たちが6年生になって、新しいチームでスタートすることが楽しみです。

 さて、今日の反省点はただ一つ!審判ですね。時間がないのと、久々に副審が子どもだったのをいいわけにして、オフサイドのとれない副審に最初慌ててしまいました(汗)まだまだ修行が足りないです・・・

 P.S. 1月26日に行われた走力テストですが無事終わりました。去年と同じ距離を走れて私は一安心してたんですが、もっと走れる!と指摘されてしまいました。

サッカーとハート :啐啄(そったく)2003-01-15

すっかりご無沙汰で時間が空いてしまった。No6を書き終えNo7を書き出す間になんと世の中は新しい年がスタートしているではないか・・・。と言うことは「新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくごひいきにお願いいたします。」

私にとって2002年は激動の1年だった。あれもありこれもあり・・・。これ以上のことはもう今後ないやろと思えるくらい○○だった。

しかしこう見えても私はまだまだ厄年ではない。冒頭の写真を見てから生年月日と比較すると えっ・・・?と言う声が聞こえそうだがそう、これからが厄本番なのだ。昨年以上にこれからもっと“凄い事”が起こるのであろう・・・。しかし凄い事と思っていたことでも後々になるとありがたいもので経験として語り伝えたりそれ以降の人生の矯めになったりするものだ。ありがたく受けいれよう・・・くじけずに。

伝わらなかったこの気持ち

新しい職場に来て早いもので一サイクルが終ろうとしている。今週で後期の授業も終わり後は定期試験と成績付け。慣れない教員生活の一年の締めである。

私はこう見えても実は高校、中学の保健体育の教員免許を持っている。体育系の大学を卒業すれば誰でも取れるものなので以外と身近に教員免許を持っている人は多い。しかし、だからといって即、教員になれるものではない。教育委員会と言う日本の教育をつかさどる機関がその本人を審査する。それにパスしないと教師として活動が出来ないのである。

残念ながら私は18年前に難解な質問をプリントで出され返事を求められた。その返事の答え方は確か指定の丸いところを塗りつぶして伝えるものであったように記憶している。しかしながらどうも教育委員会にうまく私の思いが伝わらなかったのか教師としての活動を許してもらえなかった。しかしそれが、今日では教壇に立ち能書きを喋っているのだから世の中は怖い。「お前に何が出来るんや?」と言う言葉を今年1年さて、何回聞いたことか・・・。

教育実習

大学4回生の時、教育実習のため母校の高校にお世話になったことがある。3週間ほど3年生、2年生の体育の授業と保健体育の授業を実習した。そして放課後はサッカー部の指導。どちらかと言うとサッカーの指導がしたいという思いのほうが強かったようで放課後ばかり張り切っていたような気がする。後から実習生にはあまり無い事だと聞いたがちょうど実習期間が県総体の最中であり、宿泊を伴いながら総体に参加するサッカー部の臨時コーチとして帯同を許可され出かけて行ったこともある。サッカー部の顧問先生はいたのだがサッカーの経験が無い先生であったため校長先生が特別に許可を下さったと聞いた。顧問先生もとても良い方で、たいして指導経験も無い私を立てて頂き、やり易い環境を作って頂いた。

そもそも当時サッカーの指導者になりたいと考えていた私にとっては本当に貴重な経験であった。当時はサッカーの指導でメシが食えるなんて思っても見ない時代であった。故にサッカーの指導をするには学校の教員しかないと思い込んでいた頃の出来事である。

恩師の教え

そんなある日、小学校の恩師を訪ねた。現在もご健在だがもう80歳を越えられている。女性の先生で小学校時代の恩師なのだが一度も担任を持ってもらったことはない。しかしものすごく担任になってもらいたかった先生だった。中学、高校時代に家を訪ねて遊びにいくわけでもなくただ漠然とそう思っていただけだったのだがなぜかしら教育実習中に家を訪ねていった。

私はその先生に実習に来ている事、採用試験を受ける事、指導者に成りたい事など色々話しをしたと記憶している。先生はただじっと聞いてくれて最後にこんな話しをしてくれた。
「“そったく”という言葉を知っている?これはね私がとても大切にしている言葉なのよ。この言葉の意味はね卵から孵ろうとしている雛の手助けをしている親鳥の様を表す言葉なのよ」と。

続けてこう話しをしてくれた。
「卵から孵ろうとする雛は一生懸命中から殻を割ってるでしょ。まだ弱いくちばしで一生懸命。それを親鳥は強すぎず弱すぎず外から雛と同じ力で殻を割る手助けをしてるのよ。強すぎたら雛が傷つくし弱すぎたら割れないし・・・。」・・・と。

つまり指導者たるもの子供達と同じ目線に立って考えてあげることが大切なのだということを教えてくださったのだ。本当はこのコラムの名前を“そったく”にしようと思っていたくらいである。

そったく同時

人に物を教える時、教師が子供にそうするように我々は日頃から“そったく”の機会が沢山ある。目の不自由な人に出会ったらどうする?障害者に対して心を同化させ、労わりの心を持つ。これも“そったく”の心である。

我々指導者、あるいは選抜の指導者達・・・どうしてこれが出来ない?  と怒っていない? 初めてトライする事にどうしてもこうしても無い。出来ないから練習をしているのである。言ったことをすぐさま出来るのに時間がかかるのが人間である。ましてや各チームの選手を集めた選抜チーム(様子も良く分からない選手達なのである)ともなれば時間がかかるのは目に見えている。サッカーのシステムだ戦術だの言ってもなかなか出来ないのはあたりまえである。それよりも後々の戦術に対応するためのしっかりとしたボールタッチ、ボールフィーリング、判断力を限られた時間ではあるが指導しなければならないのが選抜チームなのである。月2回程度の練習でどれだけ向上するのかは知れたものかもしれない。しかし選抜の意義というものは大きく責任あるものなければならない。

神戸FA 選抜チーム

協会としての選抜活動の考え方はサッカー選手としての技量、理解力の向上もさることながらいわゆる物事の考え方(人との関係などヒューマンな部分やメンタルな部分)とか、サッカーという物の考え方(相手の裏をつくにはどうするか相手を引っ張り出し守備の綻びを作るにはどうしたらよいか等戦略的な部分)だとか、サッカー通じて(・・・いや、利用してという言い方や媒体としてという言い方のほうがよいのかもしれない)何を学ぶかの修行の場であると私は考えている。もちろんサッカーのチームであるからしてサッカーという競技として当然勝利を目指すのは言うまでも無い。ただ、方法論を間違えてはいけないのである。無茶な方法で勝つよりも選手達が理解をしてトライして負ける方がよいのかもしれない・・・、極端な例えだが・・・。

選抜チームにも様々な年齢がある。小学生から大人まで。しかしみな同じ。基本が大切。考え方が大切。

神戸の選抜に入ったら人には経験できないことが経験でき教えてもらえる、そんな魅力ある選抜を編成できる神戸でありたい。“そったく”の心をもって・・・。

まとちかサッカー日記 :オフサイド2003-01-13

2003年1月13日(月祝)晴れ

 今日からライオンズ杯新人戦が始まりました。

 私が指導してるKSSの5年生は2チームありますが、大会に出れるのは1チームなので、2チームからの選抜メンバーで出場しました。

 今日は1回戦、勝てば2回戦まであります。私が今まで指導してきた中で、1度だけ3位決定戦で井吹の森で試合をできたことがあります。今年の5年生はおもしろい子(プレー的に)がいるのでなんとか井吹の森まで勝ち残って、子供たちに自信をつけたいという気持ちでした。

 今日の会場は、しあわせの村土グランド。バスを降りると霜でうっすら白くなってました。「うわっ寒い!」冬の苦手な私にはつらい気候でしたが、そんなことはいってられません!1回戦は3-1で勝利!寒さのせいかエンジンがかかるのは遅かったものの、おもしろい攻撃も見れて、まずまず一安心・・・。1試合後に2回戦。が、早々いらない点を与えてしまいました。後半は5分5分でおもしろかったのですが、点は入らず、最後にダメ押しの2点目。2回戦敗退です。ま~くやしい思いはありますが、6年生に向けての新たな課題も見えたし、2月にはあじさい杯があります。これは2チーム出場できるので担当チームに「カツ」を入れてがんばります。

 さて、このライオンズ杯でチームに割り当てられてる審判がありました。1回戦後の試合の副審、2回戦で負けたのでその後1試合の副審、計2回しました。副審をするのは、ほんと久々だったのですが、私は副審がけっこう好きなんです。なんでかというと、1つ自信を持ってることがあるからです。それは、オフサイドをとること。時には微妙なこともあるし、見落としてしまいそうな「戻りオフサイド」をとることが大すきです。選手からは嫌な副審かもしれないですね(笑)。でも決して「オフサイドになれ!」と思ってやっているわけではありません。オフサイドにならずにタイミングよくとび出す子とか見たら「お~やるなー」と感心し、オフサイドじゃないよという判定も好きで、観客がなんといおうが、「ちがうよ!」と思いながらやってます。

 逆にオフサイドを狙って、タイミングよくラインをあげるチームにも感心したりしながらやってます。こんなかんじで副審は楽しんでるのですが、主審でもこれぐらい自信を持ってできるようにならなければいけませんね(汗)

 とりあえず、26日には3級の研修と体力テストがあるので、最近付いた「肉」を落として体を軽くしとかないと12分間走が恐いです。

まとちかサッカー日記 :新年明けましておめでとうございます。Part II2003-01-03

2003年1月3日(金)雨

さてさて早速前回の続きを話したいと思うのですが、いきなりパート2から見た人は、「なんや?」と思うでしょう。前回を読んでくださいね・・・(笑)

それでは、2つ目のいい話です。これはデンマークの選手とある少年の出会いの話で、私もサッカー関係の知り合いからそのメールを見せてもらったものなので、送られてきたメールをそのまま書きたいと思います。


『デンマークというチームは練習を公開し、和歌山県民との交流を積極的に行い、練習後は地元サッカー少年たちとミニサッカーを行い握手会、サイン会もたびたび行ったそのひとコマの話である。

ある日も、いつものごとくサイン会が行われた。気さくなデンマークの選手たちを県民も大好きになった。あの日もデンマーク選手たちのサインを求め長蛇の列が出来上がっていた。その際中のことである。

トマソンの前にある少年が立った。彼はトマソンの前に立ちつつも・・・・少しモジモジしていた。後ろに立っていた母親らしき人が彼を促す。「ほら!早くしなさい!」と彼に言っていた。トマソンも少し「変だな」と思ったのでしょう。意を決した少年はポケットから1枚の紙切れを出し、トマソン選手に渡した。それは学校で英語の先生に書いてもらったものだという。英語で書いた紙切れにはこう書いてあった。「ボクは小さいころに、病気にかかって、口と耳が不自由です・・・耳は聞こえません。話せません・・・だけどサッカーだけはずっと見てきました、大好きです。デンマークのサンド選手とトマソン選手が好きです。頑張って下さい」と・・・

その手紙に通訳も・・・その場にいた我々記者も驚いた。言葉が出なかった・・・だが、トマソン選手はニッコリと微笑み少年に・・・「それなら君は手話はできますか?」と・・手話で語りかけた。その『言葉』に驚く少年と母親。再度聞くトマソン・・・「手話は分かりませんか?」と・・・それを見ていた筆者はトマソンに英語で言った「ミスタートマソン、手話は言語と同じで各国で違うんですよ」と彼に言った。

手話は万国共通と思う人が多いのだが国によって違う、ましてや日本国内でも地方によって違う。「そうだったのか・・」という顔をしたトマソン、そして彼は通訳にこう言った。「ボクは彼と紙で、文字を通して話をしたいのですが手伝ってください」と言った。微笑んで「分かりました」と答える通訳。

トマソンは「後ろの人たちにも彼と話す時間をボクにくださいと言っておいてください」とも言った。後ろで順番を待つ人たちは何も文句を言わなかった・・・一言も文句を言わなかった・・彼らに「2人の時間」をあげたいと他の人も思ったのでしょう。そして通訳を介し、少年とトマソンの『会話』が始まった。

「君はサッカーが好きですか?」
「はい。大すきです」
「そうですか。デンマークを応援してくださいね」
「はい。あの聞いていいですか」
「いいですよ。何でも聞いてください」
「トマソン選手はどうして手話ができるのですか?正直、ビックリしました」
この少年の質問に彼は答える。
「ボクにも君と同じ試練を持っている姉がいます。その彼女のためにボクは手話を覚えたんですよ」と・・・
その言葉をじっくり読む少年。そしてトマソンは少年に言った。
「君の試練はあなたにとって辛いことだと思いますが、君と同じようにあなたの家族も、その試練を共有しています。君は一人ぼっちじゃないということを理解していますか?」この言葉に黙ってうなずく少年。
「分かってるなら、オッケー!誰にも辛いことはあります。君にもボクにも、そして君のお母さんにも辛いことはあるのです。それを乗り越える勇気を持ってください」とトマソンは言った。

このやり取りに涙の止まらない母親。この光景を見ていた我々記者も涙した。その場にいた人たち、その2人を見ていた人たちも涙した。

 そして、トマソンは最後に少年にこう言った。「ボクは今大会で1点必ず獲ります。その姿を見て、君がこれからの人生を頑張れるようにボクは祈っておきます。」この言葉に・・・この少年は初めて笑顔を浮かべた。「はい!応援しますから、頑張ってください」と少年は言った。そして、サインをもらい、その場を後にする少年と母親。ボクの取材に母親は目に涙を浮かべていった「あんなことされたらデンマークを応援しないわけにはいかないですよ。日本と試合することになっても、私らはデンマークの応援しますよ」と涙を流し、笑いながら言った・・・

 そして、このトマソン・・・少年との約束を守り、得点を決めた。1点どころか、彼は4得点という大活躍だった。こんなトマソン、デンマークを見た筆者もいっぺんにファンになってしまった。

 1次リーグ、フランスという前回覇者と同組だったデンマーク。彼らをボクは応援した・・もちろん和歌山県民も応援に訪れた。試合が韓国であろうとも彼ら和歌山県民は応援に駆けつけた。

 オルセン監督は言った。「試合会場が韓国であっても、和歌山の応援はわかった。あれが我々の力になった」と・・・。和歌山県民の応援も実ったのであろう。フランスと同組のA組ながらデンマークは2勝1分け。見事1位通過を決めたのである。

 そして、向かえた決勝トーナメント1回戦、場所は新潟スタジアム、相手はあのイングランドであった。スタンドからは「べッカム!!!」という声が至る所から響いていた。その声に筆者は叫ぶ「にわかイングランドファンを黙らせろ!べッカムがなんぼのもんじゃ!頼むぞ!デンマーク」と叫んでいた。

 だが・・・この応援も届かなかった。和歌山県民の想いも通じなかった。デンマークはイングランドに0-3という予想外のスコアで敗れてしまった。

 その日の和歌山県には雨が降ったという。県民の涙雨だったのかもしれない・・・負けはしたが、和歌山県民はデンマークというチームを誇りに思っていた。「よく頑張った!」「後は快く母国に帰ってもらおう!」という言葉が彼らの合言葉になった・・・だから彼らは企画した。

「デンマークお疲れ様!」会なるものが宿泊先のホテルによって仕切られた。そこに駆けつける多数の県民、会場にはあふれんばかりの県民が駆けつけた。

 その催しに「ありたがいことだ」と言ったオルセン監督。もちろん選手たちも全員出席した。あのトマソンもその場にいた。そこでトマソンは見つけた・・・『あの少年』を見つけた。

 その少年と母親もその会に出席していた。少年と母親の元に、通訳を携え近寄るトマソン。トマソンの姿に気づいた母親は頭を下げる。少年はトマソンへ笑顔を向ける。そしてトマソンは少年にこう語りかけた。「せっかく応援してくれたのに負けてゴメンネ」と『紙』で語りかけた。これに少年は答える。「お疲れ様でした。負けたけどカッコよかったです。それに約束通り点を獲ってくれたからボクはうれしかったです。」と・・・
「ありがとう」と言うトマソン。そして、この少年にトマソンは言った。
「ボクから君に言える言葉はこれが最後です。よく聞いてください」
「はい」
「君には前にも言ったとおり、試練が与えられている。それは神様が決めたことであり、今からは変えられない。ボクが言いたいことがわかりますか?」
「はい」
「神様は君に試練を与えたけど、君にも必ずゴールを決めるチャンスを神様はくれてるはずです・・・そのチャンスを君は逃さず、ちゃんとゴールを決めてください」
とトマソンはいった。この言葉に少年は笑顔満面でトマソンに「はい」と言った
そして2人は・・・「さようなら」「頑張って」という言葉を残し彼らは別れを告げた。最後に2人は仲良く写真におさまった。飛びっきりの笑顔を浮かべファインダーにおさまる2人。この写真は少年の宝物になるだろう。

 トマソンに出会ったことによって少年は『前に進む』に違うに違いない・・・彼の転機になることを筆者は祈ってやまない小さな少年、心優しきトマソンにこれからも栄光あれ。 

以上』


どうですか?すごい出会いだと思いませんか?私は今回日本開催の試合のチケットをとることができず、Jリーグでプレーしている選手が多くいる韓国の応援に行こうと、韓国ー米国戦のみスタジアムで見ました。私自身もいろんな熱い思いを持つことができました。いろんな出会いをして、トマソン選手の言葉のように私たちにも与えられたゴールを決めよう!と新年の決意です。やっぱりワールドカップが日本で行われてよかったです。次のドイツ大会も絶対みにいくぞー!と決めたこんな私ですが、今年もよろしくお願いします。

まとちかサッカー日記 :新年明けましておめでとうございます。2003-01-01

2003年1月1日(水)曇り

 皆さん、明けましておめでとうございます。

 2003年が始まりました。12月はすっかり休んでしまい申し訳ありません。忘年会の多い飲食店でバイトをしてたり、ディナーショーの司会をさせてもらったりで、かなり忙しかったもので・・・。こんな感じでバタバタしてたら、あっという間にクリスマスも終わり、大晦日になり、年が明けてしまって、1年の反省をしている暇もありませんでした。

 12月に1度だけ審判に行ったのですが、久々に小学生女子の試合を吹いて感覚を戻すのが大変でした。12月末にあった、大学女子の選手権もお手伝いに行きたかったのですが、こんな感じで行けなくてすいません。(って誰に謝ってるのでしょう・・笑)

 というわけで、お正月を迎えて少し一息着いたところで昨年の反省を・・・。といってもプラス思考で、あんまり考え込む性格ではないんですよ~。でもやっぱり昨年、このサッカーばかの心を動かしたのは、2002年日韓ワールドカップです。今でも日本であのワールドカップが行われたことが信じられないぐらい、私にはすごいことでした。

 今回のワールドカップは初の2カ国で開催ということで、いろいろ注目されましたが、チケット問題、強豪国の敗退、などなど含めて後からたたかれることもありましたが、私は日本、韓国で開催されて本当に意味があったと思います。

 まず、日本人の皆さんが、ワールドクラスのサッカーを生で、または身近に感じて見れたこと。あの世界のサッカーを見て、将来の夢ができた子供や、「自分もがんばろう」と勇気づけられた大人の方がいっぱいいると思います。なんせ普段サッカーに関心のない人までがテレビで応援してるぐらいですから・・

 それに日本人ってこんなに愛国心あったの!?って思ってしまうぐらい1つにまとまった日本の応援。韓国の方がすごかった!?そんなことはありませんよ。日本の応援も鳥肌が立つすごさ、選手の心も動かしたではないですか。その他にも全世界から集まったサポーター同士のふれあいでもいろんなことがあったと思います。

 というわけで、試合の裏側で起きたワールドカップのいい話を2つばかりしたいと思います。

 1つは自分のチームでの出来事なんですが、神戸FCでは、子供たちがそれぞれハンカチぐらいの大きさの国旗を作って「日本戦で使ってください」とスタジアムに送りました。その中の1つ、チーム名と自分の名前を書いた子の国旗がチームに送り返されてきたんです。「なんでかな?」と思ったら、同封されてた手紙に「これを使って応援しました。決勝トーナメントで日本は神戸で試合をするかもしれない。だからそのときは、もう1度これを使ってください」とわざわざ住所を調べて送ってくれた方がいたんです。こういうつながりが生まれたというのもすばらしくないですか?

 もう1つのいい話は、ある選手と子供のふれあいの話です。少し長いので次回パート2で書きたいと思います。

サッカーとハート :環境整備がサッカーの隆盛2002-12-15

我が振り直す

 
12月8日は地域C級指導員の、14日には少年少女指導員の養成講習会にそれぞれしあわせの村と龍野・誉田小学校におじゃました。私もここ数年、力不足でありながら講習会の講師をする機会が多くなってきたのだがそのたびにサッカーの隆盛に驚き、指導者の熱意に頭が下がる思いがする。

私が大学を出て指導者の資格を取ったのが1986年11月(認定されたのが87年1月)、当時で言う“リーダ”といわれる資格だった。大学を出てすぐのことであり、まだ少年サッカーだとか指導者とはだとかをよく理解できていないころだったと思う。・・・今でも理解していないかもしれないが・・・。今回講習会におじゃましたとき自分の頃を思い出し「皆さんの役に立てれば良いが・・・」と思いながら講習をこなしてきたが役に立っているのかなあ・・・?

こうやって指導者になりたい、勉強したいと言う方がどんどん増えていく一方で生涯現役と言わんばかりに実際にプレーを楽しんでいる人たちもいる。まさにサッカーの隆盛でありサッカーに携わってきたことの喜びを感じる昨今である(なぜ昨今喜びを感じるのかは後を参照)。

指導者の資格がすべてではないがこうやって勉強をする場面、人の話を講習と言う形で聞く機会と言うのは大人になるとそうあるものではない。ややもすれば逆に偉そうにしゃべる機会のほうが増え、偉くも無いのに偉くなったと勘違いして調子に乗ってしまうことのほうが多いかもしれない。私にとって今回が我が振り直すいい機会になったことを受講者の皆さんに感謝、感謝・・・。

キャプテンズミッション

さて、生涯現役について。前回も書いたが生涯現役といえばママさんサッカーもそうである。

いつまでも若い者と一緒には走れない、しかしサッカーはずっとしたい。男性が今、シニアリーグを作って盛んに生涯現役の環境を整備している。であるなら女性にも年齢別、レベル別でサッカーをプレーしていける環境を作っていく必要性があるのではないだろうか。しかし、現実的にプレーヤーの絶対数がまだまだ少ないのが女子サッカー、ママさんである。今の現状でママさんの環境を幾つかに分けて何かをするというのは難しいと言わざるを得ない。

2002年10月9日、川渕キャプテン(JFA会長)がキャプテンズミッション(日本サッカーのより一層の環境充実と競技普及を目的に立案された今後JFAが取り組むべき重点施策)を発表したのだが、その中にママさんサッカーの活性化が謳われている。

ママさんがサッカーを好きでいる、ママさんが小さい頃からサッカーをしていた・プレーしていた、とい環境があるとするならそのママさんの子供はサッカーを好きになり、サッカーの隆盛は続くであろうと考え、すでに数々の先輩指導者達が環境整備をしてこられている。現に今回のアジュール兵庫のメンバーは高倉SC・高倉中学のOGや神戸FCのOGが沢山いる。田崎真珠・神戸FC レディーズ(現田崎ペルーレ)のLリーグOGまでもいるのである。そう考えると神戸はキャプテンズミッションの素地があると言える。であるなら今後は育成環境の整備のみならず女性のサッカーにも男性のシニアリーグのような長くプレーをしていける環境を整備していく必要があるのではないか。30・40代リーグと50代以上リーグと言った(単に年齢で分けるのはおかしいこともあるが・・・)リーグを。となると我々の世代が先輩に続けと言わんばかりに環境整備へのエネルギーを出していかなければならない。そう思うと少女サッカー、中学年代の女子サッカーの指導者達の大変さを改めて感じることになる。私は女子の選抜、単独団を指導しているわけではないが協会の立場としてお手伝いできればと思う・・・。

なぜ私がこうやって協会のお手伝いをするか・・・人が人を動かす

簡単に言えば人に考えさせられ人に救われたと言うこと。

昨年の暮れ、ヴィセル神戸との契約更改の日、球団のチーム統括部長の西真田氏に来季は必要の無い指導者だと言われた。そして、ヴィッセル神戸を契約満了の翌年1月31日を持って退団することになった。当時少なからず自分のほうからも考えていることもあった。確かにJリーグの世界はサッカー界の中でもいうなればメジャーな世界であり、日の目が当たる世界であることは間違いない。その世界にいたほうが情報も早いし一般の指導者が経験できない世界のことが経験できることも事実である。しかし、プロコーチという契約の世界であるはずなのに契約の評価システムがもし確立していなかったとしたら契約システムにしている意味がない上にリスクが大きすぎる。また練習や試合を見に来たことの無い者が指導者個々の指導力を評価し、給料だの来季に必要だのを査定したとしたらどうだろう。そしてプロを育てる環境はそうそう簡単に作れるものではないことは皆知っている。しかしプロを育てる環境を作ろうとする“意思・意欲”が有るのと無いのとでは大違い。環境を作る気が無い人間がいたとしたら寂しい限りではないか。結局、私がしてきた地元協会と良い関係を作る、地元指導者と良い関係を築くと言う作業も評価されていなかったのである。であるからしてまあ言うなればよっぽど私という人間は仕事の出来ないひどい人間だという評価なのだろう。だから私も大して文句も言わず「わかりました」と・・・。

その後、幾つかのチームと交渉をしていった。ヴィッセルをやめたとはいえJリーグと言う世界に対して魅力が無かった訳ではない。が契約の世界でありながら評価システムが確立されていない世界に飛び込むのであるのなら同じことの繰り返しではないか?それよりもそういった経験を糧に色々な環境整備に力を入れていって子供達にサッカー環境、選択肢を与えてはやれないか?また自分自身の存在価値は何なのか?本当に必要とされているのか?でも家族を食わせていかなければならない?家族がこのまま路頭に迷うのか?自分が本当にしたいことは何なのか?3ヶ月自問自答をし、悩み、考えた。この3ヶ月は家族にとっても大変な3ヶ月であったに違いない。なにせお父さんは朝からずっと家にいるのだから・・・子供達も変だと持っていたに違いない。

そして、ついには純粋に指導をしていきたい、選手(子供)の一つ一つの反応を感じながら指導をしたいという気持ちにたどり着いた。ヴィッセルにいたときは自分らしさを忘れていたのではないか。自分はプロを育てることも好きだが実は人を育てる事をしたかったのではないか?と。そしてヴィッセルを退団するときに沢山の人に心配をしてもらい、心救われた。そして協会関係の方々にも様々な反応をいただき救われた。その時の恩を何かしらの形でお返しできたらと思うようになった。

自分も指導をすることができるうえに様々な環境の整備をするお手伝いが出来る、それでいて恩返しも出来るところは無いだろうかと考えた。するとまた人に救われた。今現在こうして地元に残り、サッカーに携わることが出来るのも周りの人たちのおかげである。貴重な(指導、組織)体験をさせてもらったのもヴィッセルのおかげである。そしてそれらすべてが今現在、私にこのような行動をさせているのである。

今現在の職場は大学の教員と言う立場で、あくまでも本業は教員であり学生の指導、教育と言うことになる。しかし、幸いにも姫路獨協大学は地域に還元、地域に貢献をすることを奨励している。本業をおろそかにすることなく協会の仕事も出来れば言うこと無い。まあ焦らず一歩一歩進んでいこうと思う今日この頃だ。

それぞれの立場で・・・

ちょっと毒舌吐いたがもう時効でしょう。プロ球団だから今年は昨年と違い修正してあるでしょう。

当時、一緒に育成の仕事をした若いコーチ達にこの前久しぶりに会った。彼らに対して今回は失礼な文章だったかな?しかし、本気でこの世界で生きていこうと思えば自分の財産、売りを作っておかないと。自信となるものが無いと何処に出て行くにもステップアップできない。これはヴィッセルでも、大学でも、サラリーマン、営業職、専門職問わず皆同じ。

しかし心配すること無いみたいで、1年弱ぶりに彼らの指導をしているところ見た。指導者として映った彼らの姿はとても頼もしくみえた。(自分が必要なかった理由がわかったゾ~)ヴィッセルに無くてはならない存在になったようだ。頑張れ。(ちょっと偉そうな言い方だったかな?)

協会、一般市民としてずっと応援しているよ。

まとちかサッカー日記 :最高の試合と引退2002-11-30

2002年11月30日(土) 曇り

 祝!!ヴィッセル神戸、J1残留!!
私はこの1週間、本当に緊張していました。ヴィッセル神戸がJ1残留を決めるラストゲームが清水との試合・・これで本当に決まってしまうからです。私は、今日スタンドを見たとき鳥肌が立ちました。私と同じ思いをした人がこんなにもいると勇気づけられました。ユニバーで上を開放し、ヴィッセルサポーターで埋まったのを初めてみました。試合前からサポーターの熱い声援、選手がこれを見て何も感じないわけがない!

 試合が始まると、またまたびっくり!私は(戦術面ではなく)こんな戦い方をするヴィッセルを初めて見た気がします。選手の気迫をすごく感じました。播戸選手の1点目、2点目、そして最後に岡野選手の3点目。それだけでなく、全選手のそれぞれのプレー。胸が熱くなる感動の時間でした。

 こうして3-0の快勝でヴィッセルは自力でJ1残留を決めたのです。応援に来てくれたヴィッセルサポーターの皆さんをはじめ、来れなかったけど応援してくれてた皆さん、ありがとうございました。ヴィッセルは来年もJ1で戦います。ウィングスタジアムで新たにスタートをきります。また来年も一緒に応援していきましょう!来年は優勝争いで緊張したいですね(笑)

 それから、私が今日緊張してた理由がもう1つあります。それは4年間やってきたヴィッセルガールを今日のこのゲームで引退するからです。初めはヴィッセルを盛り上げよう、選手とサポーターの桟になろうという気持ちでしたが、選手のファイトに元気をもらい、温かいサポーターの応援で元気をもらい、私自身たくさんパワーをもらって、すごくいろんなことを教えてもらい、楽しく大好きな仕事でした。

 来年、ウィングに移るという機にヴィッセルガールも大きく変わることになると思います。私はウィングでやってみたいという気持ちもありましたが、今までにもらったパワーで、自分の夢のタレント活動や、違った形でヴィッセルをサポートしていこうと、最後は自分で引退を決めました。だから今日は、4年間の思いを(お礼)とおもってやりました。最後は皆さんに温かく見送られ、本当に幸せ者ですよね。来年は1サポーターとして応援していき、4年間の経験をいかし、違った面でサポートしていけたらと思っています。

 またスタジアムで見かけたら、声をかけてください。タレント活動をはじめ、サッカー関係も頑張りますので応援してください。

 最後に・・モーヴィーヴィッセルガールをはじめ、スタッフの皆さん、選手、監督、コーチの皆さん、そしてヴィッセルサポーターの皆さん、4年間本当に有難うございました。

DJの下埜しょうたくん(私もチョット写ってます)

PS DJの下埜しょうたくん、ラストゲームでも雨降らずで、晴れ男が証明できたかな?(笑) 彼のレギュラーのラジオ番組で次回、「勝利の港」を流してくれるそうです。

サッカーとハート :有言実行~母は強し~2002-11-26

11月22日~24日の3日間、広島広域公園球技場にて第14回全日本ママさんサッカー大会が開催され関西地区代表として出場したアジュール兵庫(兵庫県ママさんサッカーリーグ登録選手の選抜チーム)が結成3年目にして念願の初優勝を成し遂げた。記録はホームページの他の項目で見ていただくとしてここでは直接ゲームの評ではない部分のお話しをしたいと思う。

アジュール兵庫

3年と少し前、アジュール兵庫監督の浅野さん(神戸市サッカー協会女子委員長)から「ママさんの全国大会が毎年開催されているのだが来年度から選抜を編成して予選に望みたい。ついてはコーチをしてもらえないか」と相談された。当時ヴィッセル神戸でユースの監督をしていた私は“仕事としてのユースの指導をしっかりやらなければ”と言う気持ちを持ちながらも何とか地元サッカー協会のお手伝いも出来ないものかと思っていたので当時のヴィッセル神戸のチーム統括部長に相談し引き受けることにした。

コーチをするに当たってまず浅野さんの考えを聞き自分の出来そうなことを整理し役割をある程度はっきりさせることから始めた。私の優先順位としては自分のチーム(当時はヴィッセル神戸ユース、現在は姫路獨協大学)が1番目であるので毎回々々練習・試合に参加できない。その分無責任な指導になってしまうのではないかと心配をした。ところが浅野監督がこまめに情報を提供して下さった為、いざ練習に参加するとなった時でもあまり違和感なく取り組めた。

3年目での優勝

00年最初の全国大会は初めての参加であり他チームとの力に圧倒され、参加したことに意義があったと言う自己満足で終った年だった。2年目は関西予選を大差で勝ったのと全国大会で連覇をしていたフローレンス広島と言うチームに練習試合で勝利したこともあいまって少し高をくくって参加し痛い目に合わされた年だった。

それぞれ自分たちとしては万全の準備をしていったつもりだったのだろうがことごとく1次リーグで跳ね返された。勝負の3年目にこのような結果が出たのもそれなりに過去2年間、選手のみんなが様々なことを感じ自分なりに努力、家庭でのやりくりを重ねたからこそつかみ得た勝利といえる。

選手の成長

そして私が何よりも感心したことは1年目に比べ選手が成長したことである。大人をつかまえて成長したとは失礼な言い方なのかもしれないが本当にそう思う。これはサッカー協会の人間という立場で選手を見ても十分に誇れるのではないか。

と言うのも1年目の選手の様子、チームの雰囲気派は試合終了後、所構わず喫煙、サンダル履き、しんどけりゃ動かない等はっきり言って勝利を目指すチームとは程遠かった。こんな様子だから協会のスタッフとしても「とても見本になれたもんじゃない、子供たちに示しがつかん。」と心配、不安ばかりが先にたった。それが2年目、3年目と経つにつれてどうだろう、自主的に喫煙を控え、減らし、場所をわきまえていた。そしてこんな会話までもが飛び出した。

Aさん「今からいくところへサンダルでも良いかな?」
Bさん「別にいいと思うけど怪我するとアカンから靴はいて行ったら?」
Aさん「うん、そうするわ。」

当たり前と言えば当たり前のことなのだがこの当たり前のことが中々難しい。ましてやプロフェッショナルな選手でもないお母さんたちが日頃の生活にてんやわんやしているお母さんたちが少しずつではあれこのような小さな我慢を重ね試合にかけたという事実がなによりもサッカーをしていてよかったと思える瞬間ではないだろうか。

『小さな我慢は大きな我慢を生む』 

日々、私は子供たちに言っているのだがこれを確証してくれたお母さん、まさに子供たちの模範となる鏡となる行為ではないか。言葉でごちゃごちゃ言わず有言実行、大きな我慢をすることで押し込まれたゲーム展開を跳ね返す、1点を取って辛抱強く守りきる展開など勝利を呼び込む要因につながったのだ。お母さんたちの必死になっていた姿、情熱をみてただただ頭が下がる思いで一杯である。おかげで私もいい思いをさせてもらったのだ。ありがとうアジュールイレブン

次号にまた全国大会の雑感載せますね・・・。

まとちかサッカー日記 :上京2002-11-23

2002年11月23日(土) 曇り(関東)

今日はなんと市原臨海競技場に行って来ました!といったらびっくりします? でもほんとに行って来たんですよ。気合入ってるでしょう?

本当は、日曜に東京の友達の所に用事があったんで、もう一日休みをもらって、見にいってきました。バイトの都合で出発が遅れて競技場に着いたらもう前半は終わってました。スコアは0-0だったし、後半の始まりはかなりヴィッセルペースだったんで、「そのうち(点が)決まるな」と安心してみてました。が、突然1本たてに通されて、市原の大柴選手の得点。そこから市原のペースに変わってしまいました。

アウェーでの試合を見る機会が少なく、ヴィッセルがファールをしてもされても、市原サポーターからのブーイング。かなりつらかったです。内容的にも、(市原が昔J2に落ちそうな時広島がどこかに勝ってまぬがれたというかりがあるらしく)どちらもぴりぴりした、激しい感じで0-2で負けてしまいました。他会場の結果ではなんと広島が勝ってるし、仙台も勝って、残留を決めてるし、これでヴィッセルはほんとうにピンチです。残る試合は、調子の良い清水が相手。一方広島は札幌が相手。それを見ても不利だと思いませんか?

夜、スーパーサッカーを見てたんですが、広島が変わってました。スピードのある攻撃で本来の広島のプレーになってました。ラストゲームまで残り1週間。ホームで試合ができるのが幸いだと思います。たくさんの人にユニバーに来てもらって、皆さんでJ1残留にむけて戦いましょう!!

こんな感じでわたしの今年最後の休日は終わったのでした・・・