神戸のサッカーとわたし〜顕木新一

昭和45年(1970年)5月頃のことですから、今から50年以上前の話です。
1970年、社会人1年目の頃に高校サッカー部のOBクラブに参加し、神戸市社会人3部リーグにデビューしました。
当時、社会人リーグの運営を担当されていた布引中学校の一北先生、神戸市役所の秋月さんに勧められるままに社会人3部リーグの運営役員となって、3部の30チームの対戦試合の組み合わせ、審判の割り当て、当番チームへの記録用紙の配布、リーグ運営費の管理の仕事をしました。

その頃の社会人サッカーは、関西社会人リーグに三菱重工神戸と兵庫教員蹴球団が、県社会人リーグには神戸FCが属していました。神戸市社会人リーグには、兵庫県庁、神戸市役所、神戸税関などの官公庁チーム、川崎重工業、川鉄建材、国鉄鷹取などの企業チーム、上ヶ原クラブ、六甲ヒルケル、グリーネエルフ(灘高OB)などの学校サッカー部のOBチームが加盟していました。
役員になって3~4年たった頃に審判員に興味を持ち始め、医師の菊田先生や神戸大学の五島先生らのご指導により3級から2級審判員へとつながっていきました。
神戸ウイングスタジアムの前身の神戸市御崎公園球技場は、サッカー専用球技場で日本でも数少ない天然芝のグラウンド仕様で多くの国際試合が行われ、1979年のワールドユース大会(18才以下)ではパラグアイ代表のロメロ(後に北米リーグ・ニューヨークコスモスでベッケンバウアーらとプレーした)や、他にもポルトガル代表のオイセビオ(当時の表記名。現在はエウゼビオ)がここでプレーしたことを思い出します。
球技場は自宅から近いこともあって水曜リーグのヤンマーディーゼル対大阪商業大学の主審をしたこともありました。いい思い出のひとつです。

現在は、(一社)神戸市サッカー協会の社員として関わらせていただいています。これからも神戸市のサッカーの発展に少しでもお役に立てればと思っています。

一般社団法人神戸市サッカー協会 社員
顕木 新一(あらき しんいち)