サッカーとハート :マニュアルの隙間2004-02-01
まずは恒例の言い訳から・・・
年明けのコラム19号から約1ヶ月ぶりのコラムになるが年初に「月2回」と宣言しておきながら・・・と言う感じだ。
私もこう見えても本職があり、本来なら専門職に関する“研究活動”をしなければならない。専門研究と言っても私の場合はサッカーの研究となるのだが、サッカーといってもいろいろな捉え方がある。サッカーにおける選手個人個人の生理学的な解明もあれば、サッカーのゲームにおける選手のパフォーマンスといった、なかなか数字に出にくいものまである。あるいは、相手選手との体の入れあい(競り合いの場面)を例にとって見よう。どういう方法・手法・個人の特性が身に付けば相手に勝ることができるのか・・・タイミング?判断?身体的スピード?身体的スピードでも下半身?上半身?それとも体幹の強さ?と言った漠然としてよくわからないが、「これが分析できればトレーニングに生かす事が出来る」と言ったものもある。
感覚的なもの・主観的なものを体系付けて、文章化するといった作業が必要であり、俗に言う世に役立つものを研究しなければならない。いま、“3人目の動きの効果的なトレーニング方法”の解明をテーマに研究しているのだが、手間隙がかかる。自分の頭の中には今までの経験の中で、手法・順序・重要ポイントなどはまとまって出来ているのだが、いかんせん紙に落とす・まとめるのが大変だ。
まあ、前置きは長くなったが、要はそういった最低、年1回は“紀要”といって研究成果をまとめた冊子を作らなければならないのだが、今回の原稿締め切りが1月31日で、その原稿つくりに追われたというわけである。今回は、論文と言えるものではなく(論文にもランクがあり、査読が入る物はポイント・ランクが高く、評価が高い。昇任人事のときのポイントになる)大した事はないのだが、私にとっては大変な作業であった。どちらかと言えば、紙に落とすより実践型な方だから・・・。
一応、A4・20字×30行くらいで26枚の物になった。テーマは「ワールドカップへの道」である。なぜ日本でワールドカップを開催する必要があったのか? 開催する上での必要条件は何なのか? なぜ共催になったのか?いざ開催する上での問題点はなかったか? チケット問題はなぜ起こったのか? などを分析してみた。いざ紙に落とすのも大変な作業なのだが、文献を読み資料を入手することに時間がかかる。研究室に泊り込むことも、さて、何回ぐらいあっただろう?おかげで奥さんは最近、根掘り葉掘り聞いてきて困る。研究室棟の守衛さんに聞いてくれ!!!
上間先生のコラム
皆さんはサッカークリニックと言う雑誌をご存知だろうか?その中に奈良育英高校の上間先生が毎回、「the voice・・・from the field」というコラムを書いている。クリニック1月号に「マニュアル化という危険性」と題して指導者のあり方を示唆している。要はこうだ。「ライセンスを取得する指導者が増え、コーチングメソッド、ノウハウが広く知られるようになり、方法論を知っている人は増えた。しかし、次第に“知っている”という事が重要になってしまい、選手たちが何を得たか、どのように上達しているかというところから焦点がずれているのではないか」と言うことである。私もこのコラムを読んでなるほどそうだと感じた。
兵庫県協会と地域協会の場合
その前に少し兵庫県、神戸の話をすると、兵庫県の場合は他府県に比べてJFA公認C級(競技力向上コーチC級)以上の資格を取得した人が多い。そして兵庫県では県内を13の地域に分け、それぞれの地域に専属インストラクターを配置し(インストラクターとは、県内の公認C級以上の資格を取得した者の中からJFAのインストラクター研修を受講し、JFA公認インストラクターとなった者)、その担当地域での少年少女指導員養成講習会を主任講師として開催し、加えてその担当地域のトレセン活動を手助けするという仕組みが編成されている。私の場合は昨年までは明石地区担当で、今年度から姫路地区担当になった。
さらに仕組みを言うなら、県下の各年齢別に兵庫県トレーニングセンターと言われる“選抜”、言うなれば優秀選手の合同トレーニングシステムがある。1種(19歳以上)・2種(18歳以下)・3種(15歳以下)・4種(12歳以下)・女子(女子の中にも年齢別のカテゴリー分けがある)においてそれぞれ設置され、そこには種別技術委員長の下、有資格者が中心となって学年ごとにスタッフが割り振られている。県技術委員会の中には委員長の下、強化部会、指導者養成部会、トレセン統括部会という部会があり、トレセン統括部の傘下に各種別トレーニングセンターが位置付けられていると言うわけである。
一方で、各地域協会も活性化していかなくてはならない。選手皆が県トレーニングセンターに集約されていくわけではなく、地域協会での充実したトレーニングセンター活動が選手の育成、レベルアップ、普及を成し遂げるのである。そのため県協会にあるようなシステムが各地域協会にあるのが望ましいのであり、先に述べたインストラクターが各地域協会の活性化に協力するようにシステム化されているのである。しかし、実際には各地域協会にはまだまだ温度差があり、システム上では3,4種しか確立できていないと言う地域もある。
神戸の場合は各種別のトレセンが確立され、その現場のコーチ(トレセン担当コーチ)たちはベクトルを合わせるべく月1回、持ち回りで指導実践を行い、互いに意見を出し合い、よりよいコーチング、方法論の模索・作成に重点を置いている。
コーチングメソッドに踊る
さて最初の上間先生の話ではないが、昨今、コーチングメソッドがあふれ出ており、有資格者だからと言っても、何かしら目新しくて斬新な練習方法でもやっていないと良いコーチとみなされない、と言った風潮があるように感じられる。それゆえに方法論ばかりが踊ってしまって、結局選手個人において何が出来て何が苦手なのかを見失ってしまっているのではないかと思う事が多々ある。昔の少年サッカーでは蹴って走る、バックは上がらず来たボールをクリアーすればよい、などといった指導が目に付いていたが、現在ではとんでもないというのが当たり前になっている。
余談だが昔こんな台詞の少年サッカーの応援歌があったのをご存じないだろうか?「フォワード・シュート!ハーフはカット!バックはクリア!み〜んな頑張れ、○○イレブン!」といったような・・・。つまり当時は蹴る事がサッカーだった。だが、現在では判断・コンタクトスキル・クリエイティブ(状況に最適な技術の発揮)などと言った事が要求されている。
キックのドリル
しかし、いまだに言える事がある。子供の、回りを見る能力・範囲はキック力に比例すると言うことだ。蹴っても届かないところを子供は見ようとしないのだ。見る必要性を感じないのだ。もちろん100%と言うわけではない。中には「遠くへボールを蹴れないから隣の○○につないでもう一つ向こうへ展開させよう」・・・と考える選手もいるだろう。やがては自分の技量に比例して思考力がアップするということになるだろう。しかしU-17、U-20の代表レベル、プロに昇格するユース選手レベルにおいて、代表に選ばれるか選ばれないかの決定的違いも、少年時代に徐々に試合に慣れてきたといったレベルの選手でも必ず勝敗を左右するもの・ゲームの良し悪し(コーチにとっての)を左右するものというのはキックの精度だと私は思っている。試合中・試合後に指導者も観客も「ア〜ッ」とか「残念!」と思うところは大方キックミスの場面である。(もちろんこれだけというわけではない。コントロール・判断など必要要素はたくさんある。)
いや、そうではないかも、言い間違いだ。キックは最低限の必要要素だ。これなくしてサッカーにはならないのだ。と言うことは、なおさらキックが必要だと言うことだ。使い古された・古典的な基本練習もドリブル練習と一緒で、一つのドリル練習なのだ。必ず反復しておかなければならないのだ。柔軟なボールタッチ・小刻みなボールタッチを養うのに重要な年齢・状態があるのと同じで、この数多くボールを蹴ると言うことをおろそかにしてはいけないのではないだろうか。小柄でも瞬間の速さ、パンチのあるプレー・キックを持った少年に伸びしろを感じるのである。
隙間を埋める作業
上間先生が言う「教えていく中で選手はこういう事が出来るようになったが、逆にこういう問題が出てきた」とか「マニュアル通りに進めるのではなく、日々の選手たちの動きを自分の目で見て、考えて、検証していく作業の中から出てきたものはマニュアルでも何でもない。そうした経験を増やすことで、マニュアルの“隙間”を埋めていく事が出来るのではないか。」と言うことは我々指導者にとっては常に気にしておかなければならないことなのだろう。我々もそうだが若い指導者に対しても選手に対しても同じだ。もっと自分で考えトライする必要がある。選手に対しては答えを先に与えてしまっては考える力がつかないだろうし、目の前で見ていてあれこれ言われたら、良い指導をしなければと、それこそコーチもマニュアル化してしまう。指導者はあるときは根本の問題にまで言及しなければならないほど大切な任務を負うが、あるときはファジーで“待つ”事が必要。教えることは大切で、教えなければ選手は成長しないのだが教えすぎはダメだ。“隙間を埋める作業”が大切なのだ。私はヴィッセル時代を振り返ってよく思う。「ちょっとあれこれ教えすぎてたな。選手には良くなかったかな?」と。そして今では小6年から中3までは教えることと教えないことのバランスが大切ではないかと思っている。(しかしその極意はまだつかみきれないが・・・まあ、もしかしたら掴んだ時は指導者を引退する頃かもしれない。)
そして私は思うのだ、トレセンのスタッフとは隙間を埋められるバランス感覚のある指導者が必要な場所だ。「あの選手を私は○○年生のときに指導したんだ。あの時はまだ○○だったよ。でも指導をしたら△△になったんだ。」とあたかも自分の手柄のように言っているようでは論外だ。厳しいことを言うようだが本物は見ていれば解るし、人はよく見ているものだ。指導者は成長しようとする選手を助けてあげるのが仕事であり、選手を使って手柄をあげる仕事ではないのだ。
指導者は隙間を埋めるバランス感覚・・・つまり理屈であれこれより実践の現場での自分の目、完成に磨きをかけること・・・なのである。しかし、私は今、物事を理論立てて感覚ではなく、実証させるという作業の世界・・・論文・・・と言う世界に身を投じてしまったのだ。このギャップに泳がされ漂うのである・・・。この隙間を埋めるのは果たして感性?理論?経験?