サッカーとハート :音楽会での一場面2003-11-17
先般、ある小学校で授業参観をかねた音楽発表会があった。そこでの話から・・・。
音楽会での一場面
ある学年の順番が回ってきて発表を行った。その演目は合奏等のよくある演技であったらしい。その演目メニュウの中ほどに90人強いるメンバーを代表して30人あまりが踊りを踊った。その踊りがよほど良かったのかその学年の一通りの演目が終わった後にアンコールがかかり再度踊りを踊ったと言う。しかし、最初の演目メニュウ途中での踊りにおいてはメンバー以外の仲間はステージ横のカーテン裏に待機し次の自分の番を待つ仕草。いわゆる役割分担をしているかの如くの振る舞いで大きな問題はなかった。が、最後の突如のアンコールに対しての踊りは先生方も予想していなかったのか、踊るメンバー以外はとりあえずステージ横に座らせて・・・と、なんとなくと言う空気の中、仲間を観ていたと言う。
こういう一連の出来事は聞けば「だから何なの?」というたわいもないようなことなのだが実はこの中に人間模様があった。アンコールに対して踊っている子供の親はうれしさと自慢げな態度と・・・何処となく顔がほころぶ。しかし、踊っていないメンバーは「なぜわざわざアンコールにこたえるん?」と何やらやり方に対して不機嫌そうな顔。そう、面白くないのだ。聞けば横で待たされた子供は肘をつき、おおよそピリッとした様子ではなかったようである。ある親が「ずっと(音楽会を)見ていてこれか・・・!」と捨て台詞をはいて講堂を出て行ったらしい。おそらく残り60名の親の一人であろう。
どうやらこう言った我が子と他の子との“差”と言うものに腹を立てていたらしい。
競争社会
私も少し思う事がある。
昨今、何においても平等を唱える事が多い。運動会においても100m競争とか50m競争をしない学校が多い。聞けば「運動の苦手な子供が情けない思い、かっこ悪い思いをしないように」だとか「いじめにつながらないように」と言う配慮があると聞く。私もそれぞれの学校が考えているはっきりとした理由を直接聞いた訳ではないが多くの学校でそういう理由だと(外部から)聞く。
それについて確かにそういうことは起こりうるだろうしそういう事態に対する事前の対策は立てるべきであるし、「言われる事はもっともだ」と思う。しかしそう言って競争を行わないはずの方針が今回の音楽会では逆のこと(差をつける行為)をしてしまったような気がする。いうなれば・・・運動会において100m競争を行い“差”をつけてしまった・・・・このケースに類似する方法がとられたような気がする。
運動会方法でも音楽会方法でも良いのだが、要は方法が統一されていないことにまず私は少し疑問を感じる。私はどちらかと言えば運動会だろうが音楽会だろうが出来る者は出来る事を、出来ない者は出来る者に任せる、出来ない事・苦手なことをもさせていく・・・と言う必要性がもっと現在の教育の中には必要であると考えている。実際の現場の教員たちは「そんな簡単に保護者に言えませんよ。」と言うだろう。確かに現代の親子事情を考えるととても私が言うようなことはできないであろう。しかし間違いなく言えることは[世の中は競争社会である]ということである。
生活様式の変化と思考の良し悪し
私が大学で教えている学生たち。彼らも競争社会に巣立っていくのである。がんばれよ!!
ではなぜ現場の教員が親に対して“差”の付くことの是非を言えなくなるのか?教員は親に気を使っている。本来、対・親に限らず人に対しては気を使うものであり、気を使う事は必要なことである。人として必要な要素であるからして先生が気を使うことは何もおかしくはないのだが、気の使い方がおかしいのである。「文句を言われないだろうか?」と言う思いで教員は気を使っている。今では音楽会のやり方も運動会のやり方もPTA を通して相談し、内容を考えたりすると聞く。我々が小学校の頃や我々の先輩方の年代では考えられないことだ。しかし昔は昔で今がダメだと言う訳ではない。現在の社会情勢に合わせて音楽会、体育会のやり方はどんどん変わっていくべきだし、むしろ昔の方法のままではダメだということも実際には多い。昔は先生が子供を殴っても「先生、ありがとうございました。」と言う親はいても文句を言う親はいなかった。しかし現在はその方がおかしい時代である。殴ることの是非はさて置き、現在の社会情勢は多様化し情報があふれ思考、生活スタイルも変化に富んできているのは紛れもない事実。ちょっとボタンを押せば全世界のあらゆるジャンルの情報が何処よりも先に自分の家にいながら机の上で“パソコンの画面”というほんの10年前にはありえなかったもの(4~5年前でさえパソコンを持っている人はほんの一握り)で手に入れる事が出来る時代である。当然、親の世代も変わり思考も変わる。つまり音楽会、運動会への考え方は変わるのである。・・・当然である。
競争社会への逆行
が、である。変わって良いことと変わってはいけないことは必ずある。前にも述べたが世の中は自由競争の時代である。道路公団の民営化、郵政事業の民営化と世の中が以前にも増して動き出そうとしている。しかも自由競争の世界の方向へ・・・。それなのになぜ親が我が子を必要以上にかばい、競争の社会から逃れようと仕向けているのか。むしろ時代と逆行しているではないか。郵政事業の民営化が競争の社会である・・・ということを主張している訳ではない。いつの時代もそうなのだが個人で店を営んできた人はどうか?店を開いたときから競争の社会で生きている訳である。では個人商店というものはここ数年、このような情報社会になってから世の中に現れてきた新種の職業であるのか?いや違う。むしろ歴史はそこから始まっている。個人商店が大きくなり大企業になり・・・と言う歴史のすべてのスタートは自由競争の世界が背景にある。なのになぜ今の時代になって親は急に“差”を避けるのか。運動会、音楽会は大いに競争しなければ・・・、我が子を大いに戦塵の谷につきおとさねば・・・。可愛いい子には旅させろ(させなければ)・・・である。
将来大人になったときに困るのは結局その子供自身である。困ってからやるのでなく困る前に準備をしなくてはならない。これは良く考えるとサッカーでも同じである。良い選手は何が良いかと言うと準備、予測ができることである。そして実際困難に直面したとき耐えうる手立てを持っていることである。予測する頭脳にタックル、寄せる、クリアー、パス、シュート等サッカーの技量を併せ持つことと同じである。
回りに敏感になり、人の気持ちを察する能力をつけること
教育の思考の変化、現代の教員の気の使いよう、教員の質低下(私はそう思わないが)を叫ばれている昨今、この原因を作ったのは保護者であるような気がする(教員も人の子である以上、教員も保護者の一員ではあるが)。保護者は先生を信用できる、任せられると言う思いを持ち、教員は「任せなさい」と胸を張れる事が必要である。では、そうするにはどうしたらよいか?
互いにお話しする。もっと言うなら聞く耳を持つ、これが一番大切。聞くことで相手の話を聞きだす、考えを聞きだすのである。そしてその後に自分の考えを述べる。この順序を間違える人が多い。いわゆるコミュニケーションの能力である。そしてもうひとつ、日々勉強をすることである。勉強と言っても学問勉強でない。回りに敏感になり、人の気持ちを察する能力をつけること・・・であると私の考えを言いたい。
実は、サッカーの指導者はこの能力が特に必要であると思う。選手が自分の考え通りに動いてくれなければやりたいサッカーが実践できない。実践出来なければチーム成績は上がらずやがて解任される。つまり選手達に自分の考えを伝える作業が大きな仕事となる。選手も試合に出られなければ給料が入らないために監督の意図を知ろうとする。ここにはコミュニケーションがキーポイントとして目の前に大きな存在を現す。
自然に変わってきた世の中の流れを変える力は私にはないだろうがせめて私の周りにいる人たちには先生と仲良くあって欲しいし、互いの思いを伝え合える関係を作って行きたいと思っている。・・・そういう思いが今、地域型総合スポーツクラブの会長と言う仕事をさせているのだと思う。地域の教育力を上げたい、やがて帰って来たい・・・という故郷の匂いを持った町にすることで・・・。
と言っても実はこんなことをコラムで書いている自分こそが先生達の気を使わせてしまっている一番の要因のような気がしてきた・・・。