サッカーとハート :自分の指導とはどんなことをしてきた歴史なのか2003-10-02

少し前に我がチームの指導に関するお話を書いておきながら、続きがそのままになっている号が有る。実はその続きを書かねばと思いながらもついつい違う話題に走ってしまっている。今回こそ、その続きをと思いながらもまたしても違う話題にふれてみる。

実は先日ある方から励ましメールを頂いた。その中でヴィッセル神戸ユース時代の話があればというお話しだったので、今回は少しそういったお話をしたいと思う。

神戸フットボールクラブ時代

私は大学卒業と同時に社団法人神戸フットボールクラブという日本初の社団法人を取得したサッカークラブへ技術職員、つまりコーチとして就職した。前にも述べたと思うが、指導者を志していた私にとって、とても魅力ある機会と思い迷わずお世話になった。それが1986年の4月。1995年にヴィッセル神戸が立ち上がるまで約9年、幼稚園児からベテラン(50歳台、60歳台のサッカーチーム)まで、老若男女問わず指導の現場を経験させてもらった。神戸FCには日本代表コーチを歴任された偉大な指導者、岩谷俊夫氏(故人)や大谷四郎氏(故人)らの教えが息つき生き続け、私にとってはサッカーとは何か?少年サッカーとは何か?と言うことを非常に強く教えていただいた。サッカーを捉える視点は、いつの時代でも多種多様いろいろな視点があるものであり、時代背景によっても当然違いは出てくる。正解なんてものはない。当時の諸先輩方が考えておられた視点、それはそれで大変考えさせられ、刺激を受けた。

私は《一通り知ることが出来るものは知りたい、読めるものは読んでいきたい、頭に入るものは入れていきたい、そこから指導の現場で子供達や選手に話してあげる内容は自分自身が知り得た物の中からチョイスして伝えればよい》と考えている。こう考えるようになったのもたくさんの先達たちが関わり、神戸のみならず日本の少年サッカーをも型作った神戸FCに携われたからであり、目から鱗が剥がれ落ちるような思いをたくさん出来たからこそだと思っている。そう思うと、大人でも子供でも環境というものが成長過程には大切なものであり、また個人の知識欲というものも大切なものなのだと感じている。

前出のお二人は“経験”という、ご自分でプレーされた中から培った視点でのサッカー分析・指導をされていた。それに加え、新聞社にお勤めだった関係上(運動部等でサッカーに関する記事等を書かれ著書も多数ある)考えをまとめたり、それを伝えていく能力に長けておられた。私は岩谷氏とは面識がないのだが、諸先輩方からは伝説のように聞いてきた。

神戸FCで公的な文書、保護者宛の文書、企画書などの書き方を教わり、また新聞の書き方まで教わった。これは紛れもなくこのお二人に代表される神戸FCの歴史・伝統が与えてくれたものだと確信している。現在では賀川浩氏(芦屋在住)が神戸FCの歴史・伝統を継承し次世代では神戸FC創設者の一人である加藤正信氏の次男・加藤寛氏が継承者であろう。彼らは神戸のみならず兵庫、日本のサッカー、少年サッカーの生き字引とでも言える存在である。

皆さんは縦書きの新聞記事で漢数字と洋数字の使用方法の区別がお分かりだろうか?スポーツ紙と一般紙では違うのだが年号、日付、年齢は漢数字(スポーツ紙や運動面は日付は洋数字)であらわし、「国際Aマッチ123試合出場の○○選手が・・・」といった場合は洋数字、競技の記録や売り上げ数字なども洋数字が使われている。

ヴィッセル神戸創設期

1995年4月にヴィッセル神戸は正式に協会登録をして世の中に誕生したのだが、実は1994年の夏以降頃から具体的には準備が進められていた。当時は神戸に本社があるダイエーがメインスポンサーについており「オレンジサッカークラブ」と言う名前の会社を立ち上げ動いていた。ダイエーのカラーのオレンジから付けられた名前であった。私も現ヴィッセル神戸ホームタウン次長・加藤寛氏(前出。神戸FC時代より様々なことを教えていただいた、言わば私のボスであり今現在もヴィッセル神戸に出向中)とともにオレンジサッカークラブ本社(当時ポートアイランド・北埠頭駅すぐ)に足を運びユニフォームの事や下部組織の事などの話に参加していた。

その後、1995年1月の阪神淡路大震災によりダイエーがスポンサーから撤退しオレンジサッカークラブもダイエー社員が撤退したため新たに作り変えることとなった。それに伴いチームカラーもオレンジを使うことをやめ現在のエメラルドグリーンをチームカラーとしたのである。4月から試合が始まろうかと言う直前のこの時期、発注を済ませ、すでに出来上がっているユニフォーム・サッカーパンツ・ストッキングには白と黒の縦縞(現在のチーム基調と同じ)にオレンジのストライプが入っていたのは言うまでもない。しかしながら当然お蔵入りである。現在、当時のユニフォームが新ヴィッセル神戸事務所のミーティングルームに1着飾ってある。

当時、トップチームの選手は川崎製鉄サッカー部の選手が大半であり、倉敷広江で練習を重ねていた。岡山からいよいよ神戸に来て「本格的に始動だ!」と神戸目指し集合し、出発予定の日が1995年1月17日、なんと大震災の日だったのである。選手は岡山に引き返し、神戸からの情報も入らず、「本当にヴィッセル神戸としてリーグに参加できるのか?」といった心配が漂うなか黙々と練習に励んでいた。先日、鳥取SCの塚野氏(当時のヴィッセル神戸の選手)ともそんな話をしたばかりである。現アビスパ福岡監督の松田氏も当時の選手で体験談を話してくれた。

育成部での出来事

一方、私が担当した下部組織はどうだったか? 下部組織は神戸FCのユース、ジュニアユースの選手が移籍する形で発足し、ユースを加藤氏、ジュニアユースを私が担当した。そこへ川鉄のコーチをしていたネルソン松原氏も加わり、ユースは2人体制になった。当時の本社は三宮駅東側の二宮(にのみや)地域にあったのだが、机が三つ、電話が一つだけ置かれただけの1階フロアーに育成部の席が設置された。15メートル四方くらいの、割と広い部屋に机が三つのみである。

震災後グラウンドが一つもない神戸でジュニアユースの選手を抱えていた私は、武庫川河川敷、姫路市内のグラウンド、神戸の西の西神地区での練習と、3ヶ所を巡回指導の形で1月22日に練習を始めた。神戸は震災で大変だとはいえ、それ以外の地域は大きな被害もなく、ごく普通に生活できていた当時、4月から全国大会の予選は予定通り始まっていくのは目に見えていた。何とか子供達に予選に出て試合だけでもさせてやりたいと思い、250ccのバイクを走らせ巡回指導をした。夏は夏で三木市内のグラウンドを借り、朝から中1、中2、中3の3部門を1人で指導した。子供達は入れ替わり立ち替わり、一学年3~4時間くらいの間で数試合をこなし、終われば次の学年がまた数試合・・・。朝からずっとグラウンド・・・。しかも夏の各学年の遠征の企画書、予算書、先方との交渉(皆さんもやられていることですから私だけが特別ではありません)と事務作業は溜まっていく一方・・・。練習試合の審判はしなければならない、先方からは携帯に連絡は入る・・・、夜は会社に帰って残りの事務・・・。結構痩せていた当時の私をお見せしたい・・・気がする。

結局その年の夏、関西の予選で3位となり全国大会へ出場、秋も県中学選手権優勝、高円宮杯関西大会優勝、高円宮杯本大会ベスト8まで勝ち進んだ。この年の子は清水エスパルスの市川選手と同世代の子達で、清水は日本代表U-15選手を多く抱え、圧倒的な強さを誇っていた。我々は、夏の日本クラブユース選手権大会も冬の高円宮杯全日本ユース選手権(U-15)大会も、両方とも清水にベスト4を遮られたのを覚えている。私のチームにも、当時日本U-15代表の選手がおり、アジア予選をフル出場するレベルの子だった。藤原功旨(のりよし)といい、兵庫県三木市別所少年団出身で古谷先生に指導を受けてきた子でかなりのレベルの選手だった。高校進学とともにサテライトに合流させ練習を積ませるくらいに・・・。

つもり・・・

結局、藤原は本人の生活環境に少し異変がおき、サッカーをやめてしまった。私の知らないところで物が動き、進学する高校が決まった。親元を離れ社会人寮に入り、学校とサッカーの生活。よほどの自己管理と周りの良好な生活環境がない限りうまくいくはずがない。ましてや直接指導していた私の知らないところで物が決まっていくのだからサポートがしにくくなった。結果は・・・そう、サッカーをやめてしまったのである。プライバシーのこともあるのでここまでにしておくが、私が子供達に対して“責任”というものを知っていたような気になっていた時代から、親身になって考えるようになれた転機だったかもしれない。それまでも親身になってはいた。しかしそれは今から思えば親身になっていた“つもり”だったのかもしれない。今でも“つもり”だけなのかもしれない。今後もっと大きな出来事に出くわせば・・・そう思うに違いない・・・今は精一杯でも。

トップチームのコーチ

藤原の一つ下の学年には、現在ヴィッセル神戸のトップチームに所属する森一紘と当時一緒にトップチームに昇格し、現在ヴォルテス徳島に所属する大島康明がいた。森、大島時代のジュニアユースは夏の関西予選を、決勝戦で3点差スコアーにするくらいの力で優勝したのだが、続く全国大会では2年連続のベスト8に終った。秋の県中学選手権では、決勝戦で若草中学に1-2の惜敗で高円宮杯への出場はならなかった。彼らをユースに送り出した後も、続けてジュニアユースを指導したが森、大島世代の次の世代は関西5位、全国大会本大会1次リーグ負け、高円宮杯県予選では3位に終わり、満足行く成績を残せなかった。続くその次の世代、現大学2年生世代になるのだが、この子達は全国大会でやっとベスト8の壁を破り3位になった世代である。しかし準決勝で敗れた相手はまたしても清水エスパルスであった。

この年の中3を送り出した秋の1998年9月、トップチーム監督ベニート・フローロ氏(スペイン)がリーグ15連敗の責任を取って辞任。それに伴いヘッドコーチの松田氏(現アビスパ福岡監督)が監督代行職を務め、三浦コーチがヘッドコーチに就き、同時に私もコーチに就任しトップチームのサポートをした。主にはサブメンバーのトレーニングを行ったが、ユニバー競技場でのJリーグや当時の参入戦と言われる最後の残留争いの戦い等で常にチームに帯同した。特に参入戦ではホーム&アウェーでコンサドーレ札幌と対戦。アウェーの北海道厚別に行き、息詰まる接戦に先勝。神戸に帰っての第2戦はユニバー競技場での試合。勝てば残留が決まる試合でも勝利し残留決定。今でもあの喜びは忘れない。

ユースの監督時代の荒療法

残留を決め再度育成部門に戻り、今度はユースの監督に就任することになった。しかし何の因果かその時のユースのメンバーは間もなく3年生に進級という学年が、森、大島、当時国体選抜選手になった神戸学院大の藤谷、大体大の阿江洋介等。新2年生が現関学GKの水田泰広、国士舘の藤原宏樹、神戸学院の野間口慶太、新1年生が現関学の新保和也、甲南大学の陳賢太(1年間ヴィッセル神戸トップチームに所属)といった、現在もサッカーを続けており、ジュニアユース時代に悔しい思いをさせてしまったメンバー達であった。

秋口から練習を重ねたユースは、日本クラブユース選手権U-18大会関西予選で優勝を成し遂げ関西1位として全国大会出場を決めた。関西地域は3つの出場枠を争うのだが、毎年のようにガンバ、セレッソ、サンガに切符を取られていた。しかし、この年は1位として出場を果たした。ちなみに私は、ヴィッセルをやめるまで神戸FC 時代より通算してジュニアユース、ユース両カテゴリー合わせて日本クラブユースサッカー選手権大会本大会の出場を逃したことはない。

この年のユースはよく頑張り、夏の日本クラブユース選手権では毎年苦汁を飲まされてきた清水エスパルスに3-1で勝利し決勝トーナメント進出を果たした。(U-18大会は4チーム6ブロックで1次リーグを行い、各ブロック1位と成績のよい2位2チームの計8チームで決勝トーナメントを行う方式であり、最終順位5位以内に入ると高円宮杯全日本ユース選手権大会・現在のプリンスリーグへの出場権を得ることが出来た)決勝トーナメントの1回戦、ジュビロに破れ敗者戦に回ったユースは“最後の試合に勝てば高円宮杯へ出場が出来る”という試合の前の日、ある問題を起こしてしまった。

結果、私は6人いた3年生のうち5人を神戸へ強制送還した。ただ1人残した3年生と1,2年生で戦った5位決定戦の浦和レッズ戦。惜しくも0-1で破れ初の高円宮杯出場はならなかったが、私は3年生が起こした問題に対してよくよく彼らと話をし、私自身のこだわり、ポリシーをもって意見し、強制神戸送還を敢行した。プロになることを目指し、かなり厳しい練習をさせてきたが、同時に私は一人の人間としてサッカーを通しての生き方、正義、人情、常識、思いやり、真面目さ、砕けた表現だが人付き合い、会話などを学ばせたつもりである。だからこそ今を逃してはいけないと強制送還した。

夏が過ぎ強制送還させた子らは丸坊主にして私の前に現れた。どうやら改心したようである。様子を見ながら練習に参加させ、やがてJユースカップの1次予選を迎えた。結局、この年あれよあれよという間に優勝まで行き日本一を体験することになったのである。このJユースカップ大会、夏に強制送還された3年生もしっかりレギュラーを張り頑張ってくれた。

Jリーガーを育成する機関でも有る下部組織は、勝つことよりも育成することが重要だとよく言われる。私も今まで試行錯誤、悩みながら自問自答し戦ってきた。しかし私は、「この試合は0-2で負けてもよいから○○をしよう!」といってピッチに送り出すことなどありえないと考えている。試合は勝つためにするものであり、負けるためにする物ではない。ただ方法論にこだわらねばならないのである。負けて学ぶこともあるが勝ったらもっと学べるのである。勝つことと育成することは両立できる気がする。

当時こんなことをしたことがある。1999年、この年のJユースカップは予選リーグ3試合を終えた時点で1勝2分け1敗で後がない状態であった。大阪金岡でセレッソと対戦したユースは、開始7分に失点し非常に苦しい試合を進めていた。すると試合中に相手GKが蹴ったパントキックの浮いたボールが、ハーフウェーライン付近に飛んで来た。相手MFとヘディングで競るように見せかけていたはずの森が、急にジャンプを止め競るのを止めた。すかさず私は森に替え陳賢太を送り込んだ。プロになりたいと言っていた森に言った。「あれがプロのするプレーか?サボるのがプロか?」と。口で言うほど甘くはない。一つ一つをサボって何がプロか?

90分の試合の中でわずか1回ヘディングをしなかったくらいで、ゲームの大勢には影響がないかもしれない。しかしながら沢山のファンを作らなければならないプロ選手が、観客に感動を与えられなくてファンが付くかということである。コツコツ一生懸命走ったり競ったりしてもなかなか試合に勝てないのに、ましてやさぼって勝てるのか?ファンが付くのか?ということである。前節、グランパスに3-1で勝利し初白星を挙げたのだが、その試合で自分が先発からはずされた森はどう思っているのか?「悔しい思いをしているだろう」と期待を込めてこのセレッソ戦に先発させたのだが、今言ったようないい加減なプレーを見せた。私はそれを指導したいがために、絶対的にチームの中心であった森を途中交代させた。前の試合に次いで「負けても構わない!でもどうしよう」と思いつつ、そして半面「次年度の契約は破棄かな?」と自分の身を心配しつつも交代させた。それを選手は知ってか知らずなのか、その試合は逆転し2-1で勝利を収めた。1週間後の一次リーグ最終戦は因縁のグランパス。この試合にもう一度先発出場のチャンスを森に与えた。森はJユースカップ初得点を挙げる活躍で、3-1とグランパスに連勝しリーグ1位抜けを決めた。決勝トーナメントに入ってからは、1回戦塩釜FCに3-1で勝ち、2回戦はなんとまたしても清水エスパルス。よくよく縁がある。しかしながら夏に続いてジュニアユース時代の借りを返す勝利。3-3のPK戦ではあったが勝ち進んだ。エスパルスに勝ち、ベスト4を勝ち取ったこの時点で、子供達の中には達成感があるのか妙な空気が流れていた。中3日しかないのに困ったものである。いぶきで練習をしていた出発二日前に、あるいい加減そうに見えるプレーを引き合いに出し、キャプテン大島を一発どついた。大島にしたらしっかりやっていたのだろう。口をとんがらせて文句を言いたそうであった。確かにそんなにひどいプレーではなかった。しかし、この達成感が招く変な空気を断ち切るにはこれしかない。大島には悪いがキャプテンの宿命、犠牲になってもらった。準決勝は愛媛FCに3-2、決勝はマリノスに2-0。子供達はヴィッセル神戸に念願の初タイトルをもたらした。

指導者の仕事の一つ

3年生よりは2年生、2年生よりは1年生と出来るだけ若くて戦力になりそうな選手を発掘し育成する、これは下部組織では常識的な話である。3年生の有能な子はサテライトもしくはトップで出場することになる。それに達しないレベルであれば高卒段階でのプロはありえないのである。だから3年生をJユースカップに使わない球団が多い。もう望みが無いとでも言うように・・・。しかし私は3年生を使ってきた。この年だけでもない、ずっとそうだった。この年は、森、大島がトップに昇格した。他は大学サッカーに行った。ただ「トップに昇格させてみるか」という話しのあった子は他にもいた。しかし私が止めるように言った子もいる。将来設計の中で、はっきりと可能性を伝えてやらなければならない子もいる。指導者はプロを育てることが仕事だといい、ただ闇雲に「チャンスはわずかだがやってみる価値はある!」と言ってプロの世界をトライさせるのか?大人というものはいつの時代もご意見番であり経験者である。やらせるのか、止めさせるのかをしっかり指導をしてやらなければならない。ゆくゆくは本当に子供達を一生懸命指導するハートを持った人に預けたいものだ。そのためには指導者自信がプロのレベルやアマチュアとの違いを把握、体感し、言葉として伝えられることが必要である。そう思うと日本のプロサッカー、育成の歴史はまだまだ始まったばかりである。そして元Jリーガーが子供達を教えるようになることがひょっとしたら大切なのかもしれないと思う。しかし、元Jリーガーはまだまだ体感的フィーリング指導が多い。

言い換えればつまり、元Jリーガーで実績、実技力があり、経験値も多い者が子育て、育成、指導、サッカーの捉え方、考え方、世間・社会とのコミュニケーション能力などのサッカー以外の能力を身に付けられるようになれば鬼に金棒である。(逆にサッカー以外の能力がある人がサッカーの能力を身につけるか・・・。)そうなった時が日本の子供達の更なるレベルアップがかなう時であり、安定した力を持ち一定レベルを維持するサッカー国になっていくのであろう。

今回、実名で教え子達に登場願ったが、私は決して私が育てたなんて思っていない。一通過点なだけである。それよりもっともっと飛躍して欲しい、まだ物足りないとさえ思っている。一紘もなかなか試合に出られていないわけだからまだまだやることはあるはず。この場を借りて教え子達にエールを送りたい。

今日の努力は明日への成功! 今を精一杯頑張れ!