サッカーとハート :プロとアマの違いは何?Part.22003-06-10

今回はこれです。少し我が事を書かせていただきますのpart II。

◇ 比較はしない ◇
 練習時間に遅れずに来るようになった選手達に何を練習させるか・・・私が一番気を付けたことは今まで指導した選手と比較しないことだった。「以前、私が指導した選手達だったらこんなこと平気でしてしまうぞ!」などという言葉は絶対口しないと決めたことだ。獨協大の選手達の実力があるのか無いのか、以前指導したヴィッセルの選手達の実力が上なのか?それはおそらく私以上に選手達が気に懸けていたことだろうし私にはそんなこと関係ないことだった。目の前にいる選手に足らないところを補ってやる、ただそれだけである。何かにつけ比較されるかもしれないと気にしているだろうし、それでなくてもJリーグの下部組織チームというブランドが獨協大の選手達の純な気持ちに嫌気だとかモチベーションの低下を投げかけてしまう可能性があるのだから。

だから私は最初に選手達自身の現段階の力量を知らしめることから始めた。体力など自身の能力を数値で表すことによって、その後のトレーニングで自身の力が変化していっているということがわかりやすいだろうと考えた。人との比較で無く自分自身との比較である。トレーニング前と後での数値の比較ならおそらく一層のモチベーションになるだろうしその変化がどうして起こったのかが理解できれば“なぜこの練習が必要なのか” を感じ“だから頑張るんや” と言うところへ選手自身が繋げていけるだろうと。ほって置いても・・・。

もう一つ私が選手に言い伝えたかったのは、「サッカーという競技をよく理解すること」であった。

チャンピオンシップスポーツとして試合は負けるためにしているわけではない。「今から0-3で負けて来い」といって送り出すような試合は絶対ありえないのだ。負けて「勉強になった」ということは嘘でもないし確かに勉強できることもあると思う。しかし、勝った試合ならもっと勉強できるのである。負けたときにしか出来ない勉強もあるがそれは本当に力いっぱい力を出して負けたときに勉強できるのであって、力を100%出すことができないでいた試合では「本当は100%力を出してれば勝てるのかなあ?」という疑問を残すこととなり、結局勉強したような気になるだけであり勉強するには物足りない状態で終るのである。だから、私はまず

(1)全力を出し切る習慣をつけること
そのために
(2)よい準備を周到に行うこと
そして
(3)サッカーに必要なことをすること
と言うことをしつこく言ってきた。

(1)は何事にも通ずる事だとも思うが全力を日頃から出す習慣を持っていない者はといざという時に全力を出せはしない。一生懸命全力を出してサッカーをしたとしても世の中、上には上がいるのにいわんや全力を出さないをや・・・である。それでいて、一方では力の抜き方も覚えて欲しいとも思っている。人間張り詰めてばかりでは息が詰まる。どこかでファジーでなければよいアイディアも浮かばないのである。本来サッカーという競技はどんな競技か考えてみると興味深い。「サッカーとは相手の逆をついたり、緩急・右左・縦横と相反するものを組み合わせるスポーツ」という特徴がある。相手の出方を見て「こう来たらこうしよう」とあれこれ考え相手チームを料理するのであり、「こう仕掛けたら相手はこう出てくるかもしれない」と考え自分のポジション取り、スピードなどを調整する。ゆえに全力を入れることと力を抜くことの妙を会得しなければサッカーは出来ないのである。しかし最終的には、ここというときにネジを巻きなおせる者、エンジンをかけ直せる者、そういうパワーを持ち合わせた選手であることがチャンピオンシップサッカー、競技力の高いサッカーをするには絶対必要条件であり、そうでないと格上の相手、頂点へ上るとき、劣勢を跳ね返すといった場面ではことごとく負けこむであろう。6~7割の力を出しただけで勝てる試合ならおそらく相手との力関係は最初から勝っていたという状況であるというだけである。今これをお読みの皆さんも格上の相手に一泡吹かせようとしたらそれなりの気構え、準備、作戦を練るであろう。要はそれが大事ということである。それをつまり日頃からしていると結果が出るということである。

今回はここまで。次回は(2)から書きたいと思います。

追伸

昨日、テニスをしている長女を迎えに行って帰ってきたら玄関の壁にゲンジホタルがとまっていた。一瞬「何や、変な虫や。」とおもいびっくりしたが子供が「お父さん、ホタルや!」って。「風流なもんやなあ」と思いじっくりと観察し、その後、近くにある川にホタルを逃がしに長女と出かけた。実は歩いて5分ほどのところに天然のホタルが毎年いっぱい飛び交う小川がある。「そこから飛んできたんやろうけど何でうちの家やったんやろな?」と長女とあれこれ話し、「なんかいいことあるんちゃう?親切なホタルやなあ、でもはよ皆の所へ逃がしたろ。」という長女。それを聞いた弟は「飼いたい~」すると「ホタルって寿命が短いねんで、かわいそうやん。」と長女。こんなやり取りを聞いた次の日の今日、朝刊に大きくゲンジホタルの話が・・・。

子供達のこんなたわいも無い会話にほのぼのとしていい気分になったオフであった。
この子供達の会話の中に「おとうさん・・・」という言葉が頻繁に出てきた。そう、私は子供を持つ親なのだと。しっかりせにゃ・・・と気を奮い立たせるのでした。なんでもないようなことがふと幸せに感じたり我が振りなおさせたりと、感受性があるということは大切なことだと思う。我が子にも自然を感じる心、人を感じる心が育まれていけばなあ・・・と考える一コマであった。いったいどうなんだろうか?我が子達は・・・。ホタルが運んできた“いいこと”というのはこの振り返る時間をくれたことだったのかもしれない。