サッカーとハート :大人の責任は・・・2002-09-27

◇歴史の壁◇

2週間前に第1回目を掲載して何人の人が見てくれたのか少し不安だ。「何やこの文章?」って言う声が耳鳴りのように私を襲ってくる・・・。どうか夢でありますように・・・。 

と言うわけで第2回目なのだが・・・

私は兵庫県下のクラブチームで構成するクラブユースサッカー連盟という組織の仕事もさせていただいているのだが、この組織には中学校年代・高校年代で通常のパターンとされてきた“学校の部活”ではないサッカーチームが所属している。スイミングスクールのような学外に出かけてサッカーを習い・行う世界である。Jリーグが出来たおかげで今ではかなり認知されつつあり、当たり前のように存在してきているのだが昔はとんでもない“行為”であった。

県下には神戸フットボールクラブ(以下KFC)という全国でも老舗となるクラブがある。私もそのチームで指導を始めた訳だがKFCが中学生年代のジュニアユースと呼ばれるチームを協会に登録しようとしたときの反響たるや凄まじいものであったようだ。現在ヴィッセル神戸ホームタウン事業部副部長を務める加藤寛さん等に言わせると当時はかなりご苦労されたようである。

しかし、歴史を紐解き勉強すると致し方ないような気もする。大げさな考えだが武士がいた時代からその時代に合った考え方があり“教え”として伝えられ、明治・大正・昭和と時代を変えながらそのときその時の時代背景にあった流行、考え方が出回るのである。教育勅語が崇められ儒教の教えが根本をなすわが国で明治維新のように世の中の大勢を覆すときは痛みが伴いそれゆえに歴史上の大きな出来事として残るのである。頻繁に大勢を覆すことが行われていたら明治維新も当たり前の出来事だったのだろう。そんな歴史を考えると先人の努力には興味を抱き、敬意を覚える。。

◇20年前から・・・◇

日本のスポーツは“学校”から発展してきた歴史がある。各種目の詳しい歴史は勉強不足でわからないのだが学校においては徳育・体育という観点でドイツの体育学に学び体育の素は出来たと聞いている。「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と言う言葉の通りスポーツを通して健康な人間・社会を作るのが目的である。

今から20年前の学習指導要領改定では

『科学技術の急速な進歩により生活や生産様式の機械化が進み、マスコミや交通機関が発達して生活の中での身体運動が著しく減少してきた。“歩く”ことが減り“身体的運動”は心がけない限り、ほとんどの人から失われている。』とされ、『このような社会は体だけでなく精神面にも大きな影響を及ぼしている。例えば労働の細分化、画一化によって働く喜びを失い、人間としての主体性が奪われ、機械の部品になって創造性を発揮する余地が少なくなったとか単調間に悩まされるようになったと言われる。また、人口の都市集中化によって地域社会の崩壊、地域の人としての連帯感の喪失、人間関係の過疎化が生じ、さらに組織における個の喪失、自己中心的孤立が現代社会の特徴である。』と書かれている。

一方では

『職場における労働時間の短縮により自由時間が増大しつつあり、さらには平均寿命の延長傾向が見られるようになって生涯余暇時間が増加しつつある。このために労働能率向上の為にいかに自由時間を過ごすかという考えから人間らしい生き方、生き甲斐、人間性の回復と関連して“自由時間の過ごし方”が問題にされるようになった。』とも分析されている。

このようなことを基に1982年・昭和57年に学習指導要領が改正されたのである。
これにより
(1) 人間性豊かな生徒の育成を図る。
(2)ゆとりのある、しかも充実した学校生活が送れるようにする。
(3)生徒の個性や能力に応じた教育が行われるようにする。
と言う基本方針が出されたのである。

今現在、学校は週5日制になり多少変更にはなっているものの基本の考え方は変わっていない。

20年前にすでに人間性豊か、ゆとりの教育、地域の崩壊等と叫ばれているのである。

◇関心事◇

なにが言いたいかと言うと、20年前私は大学生になった年である。「学習指導要領が改定になったから○○しよう」とか「学習指導要領が△△だからサッカーの場面において◇◇な練習をしてその後はゆとりの生活をするために・・・」などと考えて生活したことも無い。いかに私が適当な学生であったのかと言うこととそういうことを“教え”として日常的にあらわになっていなかったということである。世間へのアピール度も少なかったのだろうが当時の親たちがそういうことを感じていたかどうかが私の関心事であると言うこと。

◇がっかり・・・◇

最近、選手が茶髪で試合に出場した、あるいは出場しかけたという話題をよく耳にする。

「茶髪を現在はどの学校も校則で規制し禁止になっているはずである。それなのにサッカーの場面では許されると言うのはおかしい。出場は認めない。」というのである。サッカーと言う競技は整理されていて日本サッカー協会競技規則と言うものがあり、それに加えてその大会毎に独自の競技規則を制定し謳うことができる。今回の中学校の大会にも剃り込みだの茶髪だのを規制していた様である。要はルールで謳われている以上出場できないのだからしょうがない。

ただここでよく問題になるのがなぜ茶髪・ピアスは駄目なの?剃り込みは駄目なの?中学生らしく、高校生らしくってなに?と言う問題である。ここで結論を出すわけではないが私はいつもこの問題を聞くとがっかりする。

◇大人と子供の違い◇

学校は子供たちに学問、知識、常識を教え立派な成人にしてくれるところである。先の学習指導要領である。それゆえに教育上の配慮として禁じているのであろう。私は禁じるべきだと考えている。しかし親たちが「なんでやねん?うちの子の勝手でしょ。」というらしい。これは理屈が通っているようで通っていない。ここで言う「うちの子の勝手」は“わがまま”な行為となる。学校と言う社会にもサッカーと言う社会にもルールがありルールを犯せば罰せられるのである。世に裁判官がいるようにサッカーには審判がいてチーム内の判別は監督が行う(監督がいかに責任重大なポストなのかと言うことはここでも判る)のである。問題はなぜそのようなルールが出来たかと言う事である。

大人と子供の区別は何で付けるか?私は以前KFCで教えられた。“大人は自分で自分をコントロールできる者”であると。子供と言うのは自分で自分のやったことに責任をまだ負えない、まだそのくらいしか能力が無いのである。だから保護観察があり、お酒、タバコ、選挙権などを規制されているのである。つまり平たく言えば“子供”はすぐに周りに流されてしまうと言うことである。そんな責任能力の無いものに自由を与えたらそれは単なるわがままに変わっていき、甘えの世界に引き込まれるだけである。早く自分で責任能力を身に付け、自分のことは自分でやることが出来るようになるために20歳(譲って18歳)までトレーニングをしているのである。もっとも大人の顔をした子供もたまに見かけるのだが・・・。

大人になって仕事をして生計を立てていくのに楽な事ばかり、楽しい事ばかりあるはずが無い。むしろ辛く耐え難いことのほうが多い。それでも人間は生きていくために働か無ければならない。(だから生産性を上げるために余暇の充実が必要になる=学習指導要領) その時の為のトレーニングである。小さな我慢できずして大きな我慢は出来るはずが無い。くどいようだが“それのトレーニング期間”なのである。

だから、茶髪がしたくても止めなければならないし、止めるのは親の責任であり親が教えなければならないことである。教師でもサッカーのコーチでもない。ただ、子供たちが好きなサッカーである以上、コーチや部活の監督(先生)の話のほうをよく聞き親の言うことは聞かないとよく耳にするのも事実。それなら親とコーチ(先生)が上手く連携をとらなければならない。(だからコーチ業は経験、信用が必要でただ知識があれば言いと言うものではないといえるのだ・・・。)

また、「茶髪と言うのは子供の個性です」と主張する場合もある。ならこう考える。『その方法で個性を出すこと自体個性がないと言えるのではないか。本来“個性の主張”とは外見でなく内面で表してこそ人間の成長にプラスになるものである。』と。(基本方針に沿っていませんか?)

われわれ親として地域の大人としてしなければいけない事は自分の責任で子供を躾ける事である。そうでなければ我々自体が“子供”である。

ただ、親が学校・教師に文句を言ってはおかしいのだがこれは学校にも協力をしてもらわなければならないところもある。私も今春より大学で教師を始めた(サッカーの指導、監督業だけではなく正式な教員になった)訳だが、親がそこまで(親、家庭の問題ですと・・・)言い切れるようになるのは熱血先生(熱血先生というニュアンスが判る?)がいるからこそと言う気がしなくもない。自分を棚に上げて言うなという世界である。

こんなことを書いたらまさしく自分を棚に上げてということになる・・・。

我が子は大丈夫だろうか・・・・。

自分で自分にプレッシャーをかけてしまった・・・・・・・・・・・・・。ヤバイ~・・・・・。

*あくまで私個人が今までサッカー指導してきた中で感じてきたことです。この文章を見て賛成、反対など賛否色々あるでしょう。ただ、皆が何かしら考えてくれれば私は意見を述べたかいがあると言うものです。